[Health][ADHD] ADHDであることに対して自身はどう思うか?

はじめに

ADHDはこんな病、こんな特徴がある、どう接するべきか?など、いろいろな情報はありますが、ADHDが判明してからもうすぐ2年が経過しようとしている中私自身はどう思ってるんだろうか?と重い、記事としてまとめることにしました。

正直なところ

あまり深く考えていないというのが正直なところです。
ただ、人として当たり前のことを何かする際、その負荷が他の人の数倍ほどかかっている、結果的に無事成し遂げたときに他の人と比べて多く疲労が蓄積されている、というのはわかっています。

しかしながら、だからといってその手を緩めるわけにはいかないし、自分自身としてもそれで楽になるのならいいけども、より不安が増大するだけなので本来求める「生きやすさ」の目的すら果たせないので、そこにいろいろ考えてもしょうがないというのがあります。

発覚した当初は、自身の立場をどうしても訴えたく、いろいろな主張をしたのですが、やっぱりわからんものはわからんのだなと言うことを理解でき、だったら目の前にある楽しそうな面白そうなことに目を向けた方がいいんだろうと思ってそうすることにしています。

困ること

一番困るのは、相手がどう受け取っているのか、どう認識したのかわからない・・と言うのがあります。実は、相手の行動や表情から見て、どういう気持ちでいるだろうか?それに対して共感できるのか?と言う点については、私自身としては結構実際より深刻に見る癖がついています。何事も自分自身に当てはめる、加えて知らない領域に対して私自身がかなり不安に感じる故に、それを知ってる・できる事自体に「私より優れている」という印象を持つためです。

実際のところ、これまでのITインフラ技術を身につけた理由というのは己の信念というよりは、そうした困った人の姿を見たときに何もできない無力感に苛まれるのがいやだからと言うのが非常に大きいのです。

そんなこんなで、自己診断的な言い方でアレですが、共感力は強めであると感じています。

ただ、それを発言したときに、相手の受け取り方が私の想定より異なるようだ、と言うことに最近気づきました。深刻そうに話していることが、実は私自身はそういう意図ではなく、ケアできるポイントをちゃんと押さえれば大丈夫、やれるよ。って言いたいところがちゃんと伝わっていない事が結構多いように感じています。

特に、断定の意図は全くないのに断定したように聞こえるというのはケースとして多く存在し、それが理由で私の主張が打ち切られたりすることは少なくありません。そのたび「ちがうちがう、そうじゃない」と言う言葉が頭をよぎるわけですが、昔ならいざ知らず、今はあまり反論できなくなってきました。歳ですかね・・・

そんなADHDと言う発達障害

大人の発達障害というのが増えてきている・・と言いますが、大人の発達障害が増えたのはなぜか?って、それはおそらく「彼らが子供の頃に『発達障害』というものがなかったから」なんだと思います。私が2歳の頃、自閉症を疑われたときがあります。が、最終的には自閉症という診断は下りませんでした。

私が2歳の頃、それは1970年代から1980年代にはいる頃で、当時は「認知症」は「痴呆症」、「知能障害」は「白痴」「痴愚」という言葉が並んでたような時代です。みんな同じ人間じゃない・・・っておおっぴらに胸張って言える時代ではなかったように記憶しています。

当時の親としては、極力それを認めたがらない傾向が強かったように思うし、私や私の両親も必死に自閉症であることを否定しようとしていたように感じます。何しろ自閉症がどういうものか、私本人がなんなのかわからないですし。

当然、私の両親もご多分に漏れず必死に躾をしていたと思います。
幸いそこでたたき込まれたことが、20歳で成人して以降、かなり役に立ったように思います。「相手の身に立ってものを考えるように」ということ、「絶対と言うことは存在しない」というのが特に心に残ってるわけですが、こうした考えがなかった頃は今考えてもぞっとするようなひどい人間でしたので。

克服を繰り返した先に

そのあたりから私の中で固まった思想が「克己克服せよ」と言うものであったと思います。人生苦難を強いられてるのは周囲にもたくさんいらっしゃるのだから、それと同等のことができなくてはならない。克己克服することで、乗り越えたときに一皮剥けた人間になれる。一皮剥ければ一つ一つが楽になっていくはずだと考えるようになりました。

これ自体は私は間違っていないんじゃないかと思うんですが、その苦難の数とそこにかける負荷量を甘く見積もっていたんじゃないかなというのが私の率直な印象です。

前駆症状として鬱状態が私には発生しました。このときは情緒不安定になり、物忘れが増え、タスクの整理ができなくなった時期でもありました。そのとき、なぜそうなったのかというと、とある仕事で果たすべき完遂目標に対して、どういう対応策があるのかが全く浮かばなかったことでした。

どんなに検証しても「駄目」という結論しか出ないのです。「これなら現実的だ」という案が、かけらも見つからないというのが執筆している今から2年ちょっと前に発生してしまったのです。それまでは膨大な検証を繰り返し、様々な裏付け確認を経て「これならいける」と言うのが最低限1つは浮上しました。が、このときは全くどうにもこうにも考えられなかったのです。

実はそんな経験は1回ではなく、2度目の出来事です。ただ、1回目(今から13年前)は逃げ道を用意して対処できたのですが、2回目はそれすら見当たらない状況になったのです。なぜなら、周りに託せる人が一人もいないから。

それまで克服できた様々なことが、とうとうそのとき克服できない事を知ったというか、痛感したときに自分の中で何かひびが入るような感覚になりました。人生、楽になれるポイントなんて実はなかった、死ぬまで苦しまなければならないんだという気持ちになったとき、バキッと心が折れたような気がします。

また、お節介な性格が災いして、わざわざ他人の仕事に深く首を突っ込み、ただでさえ回らない状態で安請け合いをしてしまったというのも一つ大きい躓きポイントだったのかなと感じます。

休憩ポイントはそこにあるか?

気をつけてほしいのは、克服を繰り返すのはよいのだけど、そこに休憩ポイントはあるのか?なんだと思います。安心して一息つけるタイミング、ここ最近のIT業界の仕事は、大抵息つく暇もなくそれこそマグロのような生き方というのをするのかなという気がします。

心は何か困難に直面すると傷が入ります。その修復期間は絶対に必要なのかなと思うのです。その期間を設けずに対応し続けると、やがて日々は大きくなり、下手すると割れてしまうのかなというのが私の持つ印象です。

克服することで成長するのはいいけど、あるところで再起不能になるのなら、それは成長自体ご破算にすることであり、正直一定以上の無理は首を絞める結果になるんだなということを30代後半に知るというのは非常につらいものでして、ここで書いたことが何かしらの参考になればなぁと思っています。

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