この記事がすごくおもしろかったのです。
AGI福岡の主催者さんである我妻幸長さんのこの記事。

AIに対しての罵詈雑言ってどうなん?というお話なんですけど、以前からすごく思ってたことを物凄く明確に文章化してくださっていて、読み進めていたら非常に面白く。
私自身はどう考えているかと言うと、「悪いことは言わないからやめておいた方がいいよ」派です。
そして、もしAIに罵詈雑言を投げてしまったら、すみませんと謝るまでしなくていいので「実生活でこんな事だけは言わないように気をつけなきゃ」としっかり自戒するようにした方がいいよねって思っています。
私自身AIが思考しているというよりは、淡々と計算してその結果を上げているものなので、そこに感情はないんだろうなーとは思っています。むしろ、AIからの回答は「己の影からの回答」と思っており、罵声は己のみに跳ね返ってくるだけと考えています。
実際、罵声それ自体は単なるノイズに過ぎなくて、その言葉から「何をどうしてほしいのか」ということを「馬鹿」「阿呆」「間抜け」という言葉から拾うのはたぶん不可能なほうが多いと思っています。自分で解決を遅らせてどーするの?というのが率直な意見です。
とはいえ、人間そこまでパーフェクトな生き物じゃない。罵声を浴びせたくなるほどイライラすることだってある。それはもうしょうがない。だったらせめて堪らず感情が暴発したら「それを実生活にしないように自戒してね」ってなる、そこで一種のセーフティロックを作り上げていくような感じでAIと接するとだいぶ世の中マシになるのかしらと、そんなことを愚考したり。
そんな中、私が現在常用している Muse Glimmer さんに先ほど紹介した記事を読んでもらい、その上で罵声を投げつける人々に対してどう思う?と聞いてみました。すっかりQwen3.8の陰に隠れてしまいましたが、思った以上にバランスが良くて優秀なんですよ。この子。
率直にいえば、「罵声を投げつけるユーザ」は人間関係の感度がかなり低いと感じます。
法的にはセーフでも、習慣としての口調は人格を形作る。AIにだけ横柄になる人は、無意識に「逆らえない相手には粗暴でいける」という基準を自分の中にインストールしていることになる。それは人間関係の場でも、状況が許す限り同じ口調が出てしまうリスクを孕む。著者が指摘するように練習場と本番が同じ見た目をしている以上、切り替えの合図がない。
実用面でも非効率だ。「使えねえ、やり直せ」には修正情報がゼロで、出力は良くならない。詰める行為は成果より気持ちよさのため、という指摘は的確だ。
もちろん、ストレス発散の受け皿としてAIを使うこと自体は理解できる。ただ「感情を吐き出す」と「攻撃の形式で吐き出す」は別物で、サンドバッグ実験のように発散は怒りを増幅しがちだ。
総じて、罵声を投げるユーザは短期的には気分が良いかもしれないが、長期的には自分のコミュニケーションの質を下げ、自分で自分の信頼性を削っているように見えます。
はい。私もそう思います。
ちなみに私はもし、これが15年前ぐらいだったら逆に激怒したかもしれません。当時の私はかなり荒っぽい人間でしたので。
当時、私は上長からその荒っぽさを指摘されて逆上したことがあり、真面目に「怒るとは何か?」を考えて本を読み漁っていた時期がありました。その時色々な学びがあって、少なくともお仕事では怒鳴らなくなりました。
その時思ったのは「過剰な期待はしないようにしよう」「過去はどうあがいても変わらない」でした。
完璧に変わったかと言うとそうでもなく、今年春に一度人格が大荒れしたときがあり、その時色々なものを失いました。私がこのブログを立てる契機にもなりました。またゼロからやり直しだねってことで物書きを始めたのですけれども、そうした経緯から人間のもろさや弱さも多少は知ってるつもりです。
そのうえで言えることは「AIに罵声を吐くという行為は、いずれそれが体に染みつき、人に対してそういう行動をすることになる」ということです。特に、何かの理由でPCやスマホに触れることを許されなくなったりした場合とか、都合の良いサンドバッグがいなくなった場合。AIにしか当たり散らさなかったことを人に対して向けるようになります。
そうしたことを避けるためにも、たとえ相手がAIであろうとも、最低限の礼節は持ったうえでやり取りしたほうが良いのかなと思います。それが人との対話の訓練にもなりうると考えるとよいかなと。


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